時景の中へ.

中へ先へ進む.

Zeeland

水との戦いの歴史がある。それは悲劇も呼んだけれど、成功も呼んだ。それでも、まだまだ小さく、時には大きく続く。
大きな枠組みで、徐々に作り上げる、それしか、大きな災害を防ぐ方法はないのだろう。それでも小さくは溢れてしまう。ビルバオもそうであるが、それを織り込んで街を作り、また逃げることを考える。その次の補償はどのくらいまで考えているのだろうか。。
もちろん、逃げるための準備の時間が違ったりするわけで、日本とは違うのだけど、、ひとつひとつ丁寧に向き合わなければならない。

遺構。として活用しやすいものがあったわけであるが、インタビューをみるとそんなにすぐ作られたわけでもないだろうが、いかに引き継いでいくのかは一番大事なはずで、それは地元にという面もあるが、末永く多くの人にという面もあるはず。それを国としてすぐに進められなかったことに残念に思うし、もちろん復興も大事だが、多くの人の記憶に残すための工夫も大事だと思う。そして、未来のための計画や工夫も示していくべきだろう。
場所が定まらないのであれば、仮設でさえよかったのではないか。もちろん、場所のもつ力、目の前のものの持つ力は偉大であり、それは代えがたいわけだか。
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(あふれた水を防ぐために堤防のパーツを水で浮かしながら運び,堤防を構築)

(現在は地面のうねりと組み合わさった建物のように見える)

(中は空洞のために洪水に関する歴史を伝える博物館として活用)

Taberna Plaza Nueva


旧市街の愛される広場にて、兄弟でバルをやっている。おしゃべり好きで、毎日顔なじみの客に会うような、そんなドメスティックな店主でさえ、ドジョウと肉を食べにいくのが楽しみで、まあだからお店が務まるのだけど、楽しく過ごす。


チームを誇り、客を愛する。それでいて、ありがとうを覚え、遠くの新聞記事を大切にし、酒やイラストを飾る。サンセバスチャンでも日本デーでのお酒はそんなにいいものじゃなかったみたいだけど、、親切さが伝わって好きになってくれるんだなって。

San Sebastian

ヨーロッパの、またはスペインの観光地。それはここだけでなく,バスクという国がそうなのかもしれない。それだけ,異なるオリジナリティをもつ.


とはいっても、地元の人たちが、自らの,フットボールを、海を、バルを愛することには変わらない。


自分の土地に対するアイデンティティーが、フットボールの中でも醸成され、マドリッドやカタルニャからは離れた歴史と旗とペロタをもち、自分のバルへと向かうのかもしれない。
おらが街のスポーツの意味をそこに求めたらやりすぎなのだろうか。それが、子供のチームからだんだんと大きくなっていく、そんなことが起きていても不思議じゃない。
ただし,その成長の中で,ほとんどの人が,どこがでいつかは挫折することを考えたら、やっぱり小さな町のチームの対抗から始めるべきなのだろう。

むろん、産業は重要だから、外から人を迎い入れ、旧市街は観光客を大事にする。それでも犬を連れて街を歩き、近くのバルに行き、人が好きで、それとなく交わる。そんな感じを受けた、なんとなく自然な空気。
まあ、あれだけ、きれいな海と高台からの風景があれば、誰でも好きな街になるのかな。それをいかに見せ続けるのかが、都市計画なのかもしれない。

Bilbao

空間が人を集める。そこに歴史は必ずしもない点で、パリともオランダとも異なるかもしれない。海に親しみ、川に親しみ、山を眺めて育ってきたことは確かだけれども、ゆるりとつながり、新しいランドマークが間をつなぐ。それによって、街を結び、人が歩く。

旧市街へつながり、山への道、スタジアムへの道に繋がる。ミュージアムの周りには子供が遊べる空間を作り、目を向ける橋で川を繋ぐ。


氾濫原を活用した空間は、緑を敷いたステップカーと、歩行者自転車のためのスペースをたっぷりととった形となり、週末には地元の人が、当然、観光客も集まってくる。

歩くことに親しんだ人たちのために、碁盤の目の都市の中に、斜線の主通りと、狭くしてバルが立ち並ぶ街路が散りばめられ、どこまでも歩ける空間になる。
真ん中をメトロが通っていることは人を歩かせるためかもしれない。逆にいうと川沿いはトラムがあっても歩きたくなるし、トラムの上からでも魅ることができる。

山の中の平地に集まって暮らす中で、住居は密集した。そのままの形を生かした旧市街は、より密で、より好まれる形として残っている。パーソナルスペースまで小さくなってしまった人たちだから。

もちろん、山の上や郊外には大きな集合住宅が並ぶわけであるが、緑の公園は残されている。それは、フットボールにもちろん限らないが、外で遊ぶ子供達のためのスペースなのかもしれない。飲んでる大人達の真ん中で玉を蹴り、絵を描く子供たち。そんな日常を愛してるのだろう。

Rotterdam 2

さすがに大きな都市であって、歴史のアムステルダムと対を成す現代的な空間構築。地震のない国特有の乱反射する建物達。自信をもって、これがロッテルダムだと言える気がする。開かれた都市の楽しさがさらに道を、そして街を拓く。機能美と先進性を古くから織り込んできた街でもある。それが今に繋がっているのかもしれない。東京が持つものはなにか、、曖昧性?
もちろん、運河の街として古くから成立していて、今の車社会で運河に苦しめられている部分はあるのかもしれないけど、車は外に排し、必要なだけ中に入れる。そんな考えの奥底は運河の街に通じるかもだし、運河自体を効率よくしようというエンジニアは、海のある小国ならではかもしれない。
相変わらずの、アートをまとめたり、広場や図書館をまとめたり、ウォータータクシーで繋いだりという、土地利用の感覚はさすがのものである。

Rotterdam

街の玄関はこんな変わった形をしているわけで(1枚に収まってないけど,,)

戦火に遭ったために,近代的(前衛的)な建築が並んでいます.

中でも,これ!の中にマーケット.やや観光向けで,インドのマサラや寿司もあったりしますが,ソーセージやお惣菜などなんでもあって,デパ地下みたいな品そろえ.

もちろん,アートも街中にちりばめられていて,楽しく動けます.

海のそばの運河の街でもあります(左下は運河タクシー,右下の緑色はお風呂)

まだ,チューリップの季節はやってきていませんが,,レモンで黄色くなるということを学びました.

Car Sharing interviews in Germany

カーシェアサービスは大きく二つに分類.
・Free Floating型:一定のエリア以内でどこにでも乗り捨てできるワンウェイ型のカーシェアリングサービス(乗り捨てる場所はステーションに限定)
・Round Trip型:車を借りた場所に戻す型のカーシェアリングサービス.(日本のTimesやオリックスが駐車場やマンションで提供しているカーシェアとほぼ同じ.1時間単位で借りられ,IT利用により通常のレンタカーよりも手間が小さいところが特徴.高密の場所では1ブロックに1台配備)

ベルリンやフランクフルトで展開される(1)car2goはFreeFloating型,フランクフルト周辺でサービスを展開する(2)Book-n-Driveは両方のサービス,フライブルグでサービスを展開する(3)Stadmobil SudbadenはRound trip型のサービスを提供している.

Free Floating型の代表例はこちら.

こいつ(Car2Go)が日本で走る日は来るのか.


smartという日本の軽自動車よりもさらに短いこの車.ベルリンの駐車事情の(文字通り)隙間をついて,浸透中.


EVは新規で環境負荷が優しいという点で魅力だが,やはりまだまだ浸透していない.日本では,温暖化というのは脇の脇にいってしまっているが,,なぜなのか..


フライブルグでは市が協力して,Round-trip型の(目立つ)駐車スペースをまとめて事業者に貸し出し.市の交通サービスの向上やスペースシェア,環境負荷低減のメリットは見出している.


フランクフルトは比較的ひっそりと.住宅の裏にまわりこまないと見つけられない.住区でシェアするので,まあどこでもいいんだろうけど.


自転車シェアリングも浸透中.値段は高くなるけど,ポートじゃない場所においてもいいだらしい.ちょっと衝撃.

あまり書けませんが,調査の趣旨は,いかにすれば需要・利用者を確保することができるのか,いかに需要・利用者を予測できるのかを学ぶこと.Car-sharingが比較的浸透しているドイツでの経験や実態を聞くというものであった.

ドイツでcar-sharingが浸透した大きな問題としては,駐車場確保の問題を市中心部や住宅地で抱えていることがある.市中心部で簡単に駐車スペースを見つけられないor高いのでFree Floating型のサービスが求められ,マンションに併設する駐車場のlot数が十分に確保できないのでRound Trip型のサービスが求められる.また,どちらのサービスも前提として,常に車の利用が必要な都市の状況ではなく,公共交通でも移動できる状況(公共交通網がそこそこいい)が必要.


こんな街中でぱっと車を借りる格好よさから伝わったんだろうな.