時景の中へ.

中へ先へ進む.

海部

出張で,この町へ.

本の著者の岡先生や海部町のみなさんの話をお聞きする中で,町が培ってきた歴史や空間,人々の暮らしが,現在の人々の考え方にまで及んでおり,実際に自殺予防という形で数値としてまで現れてきていることを実感でき,驚き,また大変勉強になりました.

修士時代は愛媛や高知の町や村の人たちと関わる機会をいただき,都市や土木という分野から地域の資源を生かす・起こすということを考え,町や空間の中の歴史や風景遺産といった視点がほとんどでしたが,その中の人々の関わりやコミュニケーションに特徴があるということに考えが及んだことはなかったように思います.もちろん,町の中で,こんな面白い人がいて,とか,こんなこと知っている人がいてといったことを大切に感じていましたが,それは,どんな場所でもそれぞれ色んな人がいるという考えで,面白い人を見つけようという視点だったと思います.今回感じたのは,そうではなく,町として,コミュニケーションに関する文化が違う,それが町全体の魅力になっているということでした(もちろん,海部にも色んな人がいます).

また,もうひとつ勉強になったこととしては,地域の保健師さんが多くのことを知っていて,町の様子をよく見ているということです.これは完全に僕の勉強不足だったわけですが,この点も大変勉強になりました.

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漁師町らしく,塀もなく,密集した空間.(隣のテレビの音も聞こえるような)この近さが親しさ,コミュニケーションの頻度の源泉.

日常のコミュニケーションの場としての共同洗濯場.

とれた魚やおかずを町の中で分けたり,そのための放送もあるそう.


徳島の南側に行ったのは今回が初めてでした.サーフィンの聖地にもなっているとか.


津波の歴史もあります.

's-Hertogenbosch / Oeteldonk

一瞬(といっても四日間だけど)の街のお祭り。この時だけは,'s-Hertogenbosch(伯爵の森)ではなく,Oeteldonk(カエルの湿原)という街の名前.なにか形を、やることを決めすぎることなく、お酒を飲んで、変装して、マーチングがあって、あとは、積み重ねた誇りとしてのカエルのワッペン.


ゆるくても、みんなが集まよwみたいな感じなので。まあでもそういうお祭りがあって、国が小さいからみんなお祭りに帰れる距離にいて,集まってくる。きっと、そういうもんなんだろうなあ、祭りって。そういうのは自分では感じたことないけど、
なにか街に特徴があるわけでもないし、ランドマークもないけど、その空気を共有し、共有する人は仲間だという空気を持つ。ゆるりと。


駅裏にある空間は、さすがオランダという感じの機能的な作り込み、水を使った柔らかさと、配した大小の街路、そして駐車場に、採光。ビッグスケールであっても納得する作り込み、これは環境との調和が必要で、これにより、目減りしない(或いは目減りを織り込んだ)作り込み、これは街路と自然の細やかさ(かなぁ)を成す。

Van Nelle工場

機能美極まれり。というところまでの説明は受けれなかったが。おそらく、機能美といっても、機能の美しさだけでなく、見た目の美しさを含んでいる。それがロッテルダムの街や外側を残した改装に通じているのではないか。


見た目が綺麗じゃなければ意味がない。それは、パブリシティ(外からの目)に対する考えや街の誇りとしての美しさの捉え方が影響して、なにが綺麗なのかを育んだ結果なのだろう。もちろん、アジアンな乱雑さを否定することは考えていないが、街の見た目を紡いで、風景を魅せ、アイデンティティーを保つことが、おらが街に繋がり、地産地消につながり、物と人のローカルな循環に繋がっていく。遠くの憧れを超える楽しさを。
ここまで書いていて思ったのは、日本ならではの、口混みではない人づてではない就職が、遠くの憧れの強さに繋がっているかもしれない。中国の科挙明治維新の主要藩からの登用が国の真ん中で成功を集めることの羨望を生み、参覲交代や鉄道網の発達が中央への距離を縮め、天下御用達や金の偏在が文化の濃度をならしていった。
それでもバスクは天下のチームを倒せる平等な競技が、誇りを育めたのかもしれない。権力と金の前での鬱憤を目の前ではらしてくれる。相撲に郷土力士はいるが帰ってこない、野球は真ん中に寄りすぎた。
おらが誇れるものと目に留め置ける風景を。自分の職場に誇りのもてる建物を。

Basel

トラム。古くからあるのだろうが、それだけではなく、象徴的に駅前に作り込む。そこからあらゆる方向に数多く伸ばし、優先し、市民の足にする。目に見えることで歩行者も乗りやすく、歩きも促進し、少量しか運べないければ数を増やす。

ドイツとフランスと接し、スイスとは山で隔てられた街であるからこそ、宿泊客のための交通無料券。これで足を少し伸ばすことができるはず。象徴的なものはないけれど、ちょっとずつ歩いてもらって、たくさんのミュージアムがあって、いることで刺激を受ける街にする、そんな感じ。

渡し舟の静けさ。威。

北の街は歩く休む。南の街は立ちどまる。そんな違いはあるのかもしれない。
中と外が形づくる、ハレとケ。中が少し大きくなるのが南の街かもしれない。
トラムの中の学校帰りの子供たちの多国籍さもすごく、この環境で育てば、それが普段になり、受容的になるのだろう。そんな環境はすごいなと思った。

Leiden

あんまり歩いてないから、街自体はよくわからなかったけど、、博物館に行った。古くから大学のある都市であることが、博物館の充実に繋がっているのだろう。

自然博物館は、見せることよりも、子供たちが親しむことをとことん考えた構造。図書館も同じであるが、学ばせるためにはなによりも楽しませることであるということが共有されているんだろうなあ。それは、大学であっても、議論させ、会話させ、作り上げるということになり、紡いでいる。親しませるための工夫は、オランダだけでもないかもしれないが、よーくしゃべる、話すことが楽しい大人を作っていくことに繋がるのかもしれない。

だまることに美徳があったりする国、それはなんとなく小さい時から刷り込まれ、仮想空間での発露に繋がり、だまって見守る形が失われ、建設的な合意や温かい眼差しが失われていってるのかもしれない。